バラを召しませ ランララン(2) (平成8年5月のNHKラジオでのお話から)
2.新しい品種を出す
新しい品種を日本から出すと言うことは それまで あまり日本で組織的にやった例はありませんでした。
新しい品種を独りよがりに作っててもしょうがなく、外国のコンクールに出さなければ認められないという
ことが分かりました。
戦争前はただ新しい品種を狙っていただけでしたが、戦争後に 外国のコンクールに出そうと決めていたところに
ちょうど 戦後はじめてドイツのハンブルグのブランテンブローバイの国際コンクールより招請状が来まして、
是非出品してもらいたいということでした。
私はもちろん終戦直後でしたので、ブランテンブローバイを知らなかったけれど、とにかく新しい品種を送ろ
うとしました。
それは戦争後あらわれたピースというフランスのバラですが、アメリカから売り出された、非常に大輪のバラが
あることを知っていたので、これを凌駕するものをつくるのは難しいことでした。
日本的なものが良いと思って、たくさん交雑して作った新しい品種の中で、一重で真黄色のものがありましたので、
ドイツに送りました。それは「天の川」という名前で、フロリバンダ系といって花がたくさん咲く系統のものです。
その頃、植物を外国に送るということはかなり大変なことでした。非常に時間がかかって、ドイツに着いたらし
いのですが、コンクールの結果、第3位のブロンズメダル、銅賞をもらうことができ、ドイツからお祝いの手紙
が届いたときは夢のようで、感激しました。
それから元気がでて、イギリスでもフランスでもアメリカでもできないものを作らなければいけないと考えて、
濃い赤と言うより真っ赤な色の「かがやき」という品種ができていたので、世界的に有名でかつ歴史の古い
パリのブローニュの森にあるバガテル国際コンクールそれを送ることにしました。
それは当時外国を回ったりしてましたので、。これだけの真っ赤な緋赤というものはまだどこにもなかったので
自信がありました。相当なところにいけると思って出したのですが、該当する系統がないとの理由で評価されませんでした。
「かがやき」と言うのは、中輪の花はたくさん咲くタイプで、フロリバンダ(小輪がたくさん咲く系統)でもなく、大輪系のハイブリットティローズという系統でもなく、つまり
当てはまる系統がないということでした。
その話を聞いて、私は その夏、すぐにパリへ行きまして、向こうの審査員たちに集まっても
らって、「なぜ、こんなきれいなバラが どうして賞にはいることができないのか」と詰め寄
りました。その頃のフランス人は めったに英語を使わないけれど、たどたどしい英語で答え
る人があったので、その人に何回も詰め寄りました。
「美しさは美しいけれど、フロリバンダにしては、輪が大きいし、ハイブリットティローズでは輪が
小さいということで、系統的に当てはまるところがないということで落とした。」との一点張りでした。
「しかし、この花の色は良いよ。」といってくれました。でも不満で、その後十数年フランスの国際コンクールに
は出品しませんでした。
ヨーロッパにたびたび行きますと、やっぱりどこか日本人と言うと、劣等国民のように思われてる
という風な感じを受けました。(このバラもそのように思われている)そういう風に思っていました。
しかし、その後1964年、ニュージーランドで戦後、初めて世界のローズソサエティ、世界のバラ会が連合して、
大会を開くということがありまして、ここにぜひ出品してくれ との話がありましたので、「聖火」
オリンピックの聖火、英語で "Olympic Torch"という名前にして出したのです。
ところが、これが非常に大輪で、ことにニュージーランドでは非常な大輪、ピースより大輪で、ローズ色から
濃紅色に色代わりするので、これが文句なしに、金メダルを獲得しました。このときは、前のときと違って
みんなから「CONGRUTURATION」のお祝いの電報をもらって、まさかそんな高い評価を得るとは思わなかったので
すが、それが金メダルで、非常にすばらしかったということでした。
それで、フロリバンダ(房咲き)やクライミング(つるバラ)とか、小輪、中輪、大輪の区別でコンクールをしますが、
どのクラスの金賞よりもあなたの作った
"Olympic Torch"が、格別良かったので、ただの金メダルではなくて 南太平洋金星賞という
特別の賞ももらいました。
そして、ニュージーランドは戦争時、日本と敵国だったのですが、戦争が終わったのだから、仲良くしようと
盛んに言われ、向こうのバラ会の人が日本を訪れてくれまして。谷津のバラ園などを見せてあげたことがあります。
今から思うと、多少とも国際親善の役に立ったのではないかと思います。
3へ続く
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